創業者 坂本環のものがたり
創業者・坂本環は中学を卒業して林業に携わっていた。山から切った木を運んでいた。当時は馬力だったが、やっとトラックを買って、運送業のようなことをしていた。ある日、青い空を見上げて「このままでいいのか・・・」と思ったのだ。そこで義理の兄に「何か面白いことはないか」と相談に行ったのだった。その義兄は当時同じ村の先輩に請われて姫路で忙しい「太陽ゴルフ」というところで仕事をしていた、東京から客人が前金と職人への土産も持って、どうぞ作ってください、と言ってくるような、そんな時代であった。この技術を習ったら得だ、と思った環の義兄は必死で修行して職人になった。そこへ弟が相談に来たのだった。では、兄弟でゴルフの会社をつくるか!というので始めたのが共栄ゴルフ器具製作所であった。兄の削ったヘッドを弟が営業してくるスタイルで、資金は環の一番上の兄が出してくれた。あるとき、環が名古屋方面に営業に行くと、「何か変わったもの作ってくれ」と言われたので、その話を持ち帰り義兄に相談し少し形を変えてヘッドを造り再度訪問すると大変喜ばれたそうである。赤木ゴルフであった。また、大阪に日東スポーツという会社があった。日東の社長に会うまでに半年かかり、やっと会うこと叶いヘッドを見せると、「ここがあかん」、「あそこがあかん」と、無理難題を言う。言われたとおりにやり直して持って行くとまた今度は「ここがだめ」と無理難題を吹っ掛けられる。それでも全部その通りにつくりなおしてやっと文句の付けどころのないヘッドを完成させた。「何ぼやったらこうてくれる?」すると、日東の社長は最後に「魂がはいっとらん」と言われた。製造を担当した義兄は「魂ってどうやっていれるんや」と悩んだと言う。しかし、日東スポーツの社長は人生の師匠だった、とも聞いた。慢心をしたらいけない、毎日精進するということを教えられた、と。共栄のヘッドにはこの遺伝子がある。「魂ってどうやったらはいるんや?」と悩んだ遺伝子が共栄製のヘッドにはある。魂の入れ方は職人によって違うかもしれない。でも共栄のヘッドには確かに魂がはいっている。そうでなければ、あんなに美しいヘッドにはならない。
そうやって始まった共栄の歴史である。最初はステンレスが材料だった。ステンレスを磨いて仕上げていた。さびないからめっきはしていなかった。しかし初めてアメリカ製のヘッドを見たときに、なんと美しい仕上がりだと驚いたという。アメリカ製のヘッドは軟鉄素材で、めっきが施されていたのだ。その後共栄でも鍛造を自社でするようになり、またのちにはめっきの設備を持つようになった。すべては環の「日本一のヘッドを造る」という決意のもとのことであった。いいヘッドにするためには研磨だけではなく鍛造も自社でしたい。いいヘッドを造るためには、めっきも自社でしなくては。との強い思いがあったのだ。しかしめっきは難しかった。オリンピック開催を挟んでゴルフ産業が飛躍し、そのうち、技術革新の波も押し寄せた。大量生産の時代がくると、鍛造製は制約が多く、どうしてもロストワックス製法に傾いていった。鍛造にこだわった共栄は時代に押し流されそうになりながらも、米国からスポルデイング社の技術指導が入ることによって生き残ることができたのだった。名器黒トップの復活に貢献したのである。そしてその後1995年念願のめっき設備を持つことができた。これで共栄の一貫生産体制が整ったのだった。このヘッド一貫生産体制は国内ここだけである。
創業者・坂本環は中学を卒業して林業に携わり、その後共栄ゴルフを創業した。播磨の地場産業のパイオニアとなって業界をけん引してきた。ゴルフは舶来のスポーツであるが、環は英語ができるわけではなかった。こんなエピソードがある。
アメリカの空港に降り立ったものの、迎えが来ない、ということがあった。待てど暮らせど迎えは来ず、途方にくれた。ただじっと迎えを待ったのだろうか?
いやいや、そんなことは無かった。公衆電話ボックスに飛び込み、電話帳の一番上から、片っ端から電話をかけた。「もしもし。もしもし。」
環は「もしもし」しか言わない、言えない。相手には「?」「ガチャン」と切られる。それを繰り返し、
やっとのことで「もしもし」と返してくる人に当たった!日本語を話せる人を捕まえたわけだ!
たった一人で、市場を切り開くバイタリテイとはこういうことだ。咄嗟の気転と度胸と粘り。これが創業者のコミュニケーション能力である。
世界最大のゴルフ業界の展示会PGAマーチャンダイズショウ。環は風呂敷に自社で製造したアイアンを詰め込みアメリカに行って、ショウの軒先で風呂敷を広げた。「どうや。」言葉ができなくても品質はわかる。そうやって少しずつ、共栄の鍛造アイアンを浸透させていった。
何年か視察を続けるなかで、「キャビテイバック」を初めてショウで目にする。「よし、これを鍛造で作ろう」しかし、誰もそのようなことを実現できるとは思ってはいなかった。周りの反応は「できる筈がない。」「やめておけ」だった。環は諦めなかった。そして日本で、初めて、キャビテイバックの鍛造を作り上げる。今や常識となった鍛造キャビテイは、環の情熱から生まれたものだ。
そして晩年には、PGAショウに行くと「ミスターフォージド」と呼びとめられるくらいになったのである。
「困難」とは未来からのギフトかもしれない。今、その困難に一生懸命に取り組み克服すれば、困難を超えたのちには、だれもみたことの無い景色を見ることができる。
「未来の自分」がそれを解った上で、「今の自分」に困難を「与えて」いるのではないか。
業界のパイオニアとは、道を切り開く先駆者である。1番辛い役回りだ。しかし共栄ゴルフはそうあり続ける。
困難に立ち向かうことは共栄ゴルフのDNAである。
創業者の想いは、今もこの会社の中に引き継がれている。
創業者・坂本環は中学を卒業して林業に携わり、その後共栄ゴルフを創業した。播磨の地場産業のパイオニアとなって業界をけん引してきた。現在の神崎郡市川町西川辺の本社土地は、番地でいうと西川辺1番地から6番地まで、約3000坪の土地である。姫路から日本海に抜ける、播但有料道路。市川南インターを北インターへと向かう途中で、市川添いに見えてくる、民家を避けた、広々とした土地だ。この地に移る前は、西川辺の村の中に共栄ゴルフは、あった。環の夢は「日本一のアイアンをつくる」こと。その日本一のアイアンづくりのためには、研磨部門だけでは足りなかった。いくら腕の良い職人が育っても、満足できなかった。「いいヘッドを研磨するためには、いい鍛造が要る。」環は、鍛造部門を持つことを決め、炉と鍛造機を導入する。炉は、現在のような電気炉ではなく、人手で温度調整をした。コークスを、昔の蒸気機関車のように放り込んでは、温度調整をした。鍛造機はフォージエス。
いいアイアンヘッドを作るための環境は整ったかに見えたが、ここで問題が起こる。騒音だ。西川辺の村の中にあるがために、鍛造の、あの腹に響く音は、騒音となった。時は高度成長期、共栄の鍛造は打てば打つだけ売れ、当時輸の送手段である鉄道・・・甘地駅では、汽車が共栄からの鍛造品を待ってから、発車するほどだった。共栄の鍛造は精密鍛造だと言われた。昼夜問わず打ちたいが、それはできない。騒音の問題は深刻だった。まだ、国道312号線が市川橋から川向う道だったころ、現在の市川町役場から浅野へ向かう道筋は、昔の獣道から発展してはいるものの、良い道ではなかったし、山に添うように道はあり、市川の河原傍は竹藪と田んぼであった。環はその土地に目をつけたのだった。しかし、土地の所有者は十数名にわたり、いわゆる「やくざ」もその中には居たそうである。どうしてもその土地をまとめたい。環のその苦労は、恐怖は、まったく、どのようだったろうか。実は家族も知らない苦労は多々あったようで、今となっては想像するしか他にない。やってやる、という強い思いがなければ、あの土地をまとめることはできなかったろう 業界のパイオニアとは、道を切り開く先駆者である。1番辛い役回りだ。しかし共栄ゴルフはそうあり続ける。
困難に立ち向かうことは共栄ゴルフのDNAである。
創業者の想いは、今もこの会社の中に引き継がれている。